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2018年7月30日月曜日

ここでカミングアウトをしておきます。解説とかいりません。

突然ですがここでカミングアウト。
僕は実は、RTDの麻雀見るときいつも音声オフにしてます。つまり実況・解説全く聞いてません^^;

これには理由があって、
けして「松嶋桃の声が聞きたくない」とか「多井・村上の解説いらない」とか思ってるのではなくw、
①同居してる相方が麻雀が解らない
②一方で相方はラジオ大好き
→ リビングに一緒にいる時「音声はラジオ、動画は麻雀、そして気ままに会話もする」というライフスタイルになっている為である(同居している間に気付けばそうなった)。
本音は解説のトークも楽しみたいのだが、まあそこまで大きな問題なく番組を楽しめている。これつまり僕が麻雀番組見るうえで解説というのは必須ではないという事である。
さてちょっと話をいきなり変える。
昨日テレビにて、
外国人初の吉本芸能学校卒業生のお笑い芸人として話題になった「チャド・マレーン」さんが特集されていた。

10年ほど前はその肩書からちょくちょくテレビでも見たが、2018年現在お笑い芸人としてのTV出演は微々たる物。
しかし彼は現在月収200万を稼いでいる多忙の身との事だった。
そしてその仕事内容は何かといえば、「バラエティ番組の海外向け英語字幕作成」だという。
http://www.tbs.co.jp/tsuburenai-mise/onair/onair_contents_20180729_4.html

海外の人に日本の作品、映像・映画・ドラマとかバラエティ番組を楽しむ為の面白い英語の字幕を作成するのが彼の仕事との事。
現在日本のこういった番組の海外人気が高いのもあり仕事は後を絶たない状態らしい。

そしてここでちょっと面白かった点、そして共感できた点が、
「大事なのは直訳するのではなく全体のニュアンスを伝える事」というものだった。
その例としてあがったのがピース又吉原作の「火花」、
この中で主人公達が「西郷隆盛」を題材にボケ・ツッコミをしているシーンがあるのだが、
①セリフを出来る限り正確に直訳
→ 全くウケない。外人はそもそも西郷さんを知らない。
②西郷さんをケンタッキーのカーネル・サンダースに置き換え、細部のセリフも変更。
→ ウケる。

さて冒頭の話も含めて今回言いたい事を。

僕は麻雀の番組を見るときに解説を必要とはしない。でも多分解説が無きゃ楽しめない人は多数いるだろう。一方で僕は将棋の番組を見る時は解説なしは無理である。楽しむための掴まなきゃいけない情報をキャッチできない。

つまりこういった見世物には「物事を伝える為に必要な情報を伝達する」いわば「伝え手」というのが介在しているケースが多々ある。
「伝え手」に必要なスキルはまず「事実を相手に楽しめる形で伝える」という事、そしてそれをするにあたり認知しておかねばらないのが重要点が
・伝え手の能力は原作者よりもギャラリーのウケを左右するケースがある。
・事実を出来る限り正確に伝える事が良いとは限らない。不必要な情報を省略し、編集して表現することが必要。
という点である。

日本人の古来からの性格なのかどうなのかわからないが、
「伝え手」について「出来る限り事実を正確に伝えなきゃいけない」という意見を結構見かける。ただこれ間違いだと主張したいのが本記事の主旨である。
正確に伝えるのは二の次で良い。
まずは「聞いてる人が楽しめるか」これが第一。(まあ行き過ぎると捏造になるかもだがw)

まず伝えなきゃいいけないのは
・重要だと思うファクターを軸にした全体のニュアンス
・伝え手自身の意見
だろう。
「客観的な意見だけ言うべき」って人たまに見るが、これもはっきりと否定したい。
早い話、そう思う人は僕のように解説オフにして対局動画だけ見りゃいいのだ。
「この解説はレベルが低い」と思う人も同様で、解説のレベルが本当に把握できる位の麻雀力を持つ人は解説がなくとも対局を楽しめるのだ。(”本当に”把握できるならw)
日本人が日本のバラエティに字幕や副音声なくとも楽しめるのと同じである。
実際僕は冒頭の通り、解説無しでもそこで繰り広げられてる理論や駆け引きを自分である程度拾えると思っているからオフにしても大きな問題もない。
まあ個人的には解説という味付けが無いから寂しいし、1人で見る時はもちろんオンにしているが。


さて総論
「伝え手」とは「把握能力がない人への手助け」として存在している。同時に素材に対する味付けの役割でもある。
客観的意見だけを求めるのなら麻雀対局に解説は不要だし実況だけでいい。
そして観戦記については東1局からオーラスまでの全局レポートだけ書けばいい。

でもそんな物が面白いと思うだろうか?
というか僕個人が「一番読んでてつまらないと思う観戦記」の典型が、東1局から全局についてレポートしてる観戦記である。
ただ文章が長くなるだけだし、何より観戦記者自身の思考が全然伝わらないケースが多い。

「面白く伝える」には
①情報を正確にキャッチする高い知識
②ニュアンスを解りやすく伝える表現力(省略する力、作り変える力)
が必要である。
麻雀で言うならそれが備わってるのが「良い解説」「良い観戦記者」なんだろう。
「私見を入れるな」というのはズレた話だし、それを不要と思う人はそれらをシャットアウトすりゃいい。


そして最後にこの事実から出されるもう一つの意見は、
「ギャラリーの多くが”つまらない対局”と感じた場合、その責任の半分以上は解説にある」という点である。
僕は現役の競技選手以外が解説をやる事に結構反対派である。
まあ片山先生ともなれば別格だが、選手としてその場に立った事が無い人はそれ故の視点欠落の多さもさることながら「”自分の解説のせいで試合が台無しになるかも”という責任感をもってくれない」というケースを何回か見た記憶があるからだ。

たとえば先述の「火花」に直訳された字幕や拙い字幕がつけられて、
それがもとで花火が外人に酷評されたとして、
字幕作成者が「作品がうけなかった」と他人行儀に言ったら、又吉が怒っても不思議じゃないだろう。

何かを「伝える」というのが、
原作者と同じだけの責任を負う事、
その事をなによりも明確に示しているケースを見て、改めてその大事さを感じたのであった。

そういえば俺まだ「火花」観たことなかった。今度見ようかな。
チャド・マレーンさんの字幕も入れて比較して見てみたいかも^^;

2018年7月28日土曜日

麻雀漫画について書いてみる⑱ アカギ 〜闇に降り立った天才〜

本日紹介するのは福本伸行先生の代表作でもある「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」
近年に実写化・アニメ化もされており日本麻雀漫画史上でもNo1クラスの知名度を誇っている作品でもある。
そして今年2018年、ついに26年におよぶ連載が終了した事も大きな話題になった。

そもそもこの作品、
元々は以前に当ブログで紹介した福本先生のヒット作「天 ~ 天和通りの快男児」からのスピンオフであり、この中で史上最強の打ち手としてかかれていた赤木しげるの青少年期を描いた位置づけとなっている。
https://susumutakenaka.blogspot.com/2017/07/blog-post_24.html

ただまあスピンオフの方が「天」よりも連載期間も知名度も圧倒的に上回ってしまったがために、もはや「アカギだけ知ってる」って人の方が多数派かもしれないが^^;

さて当作品で有名なのはその異常なまでの進行の遅さである。
近年の福本先生の作風ともいえるこの「遅さ」はカイジとこの作品によって確立されたスタイルともいえるが(ぶっちゃけ読者としちゃ迷惑)、本作品はカイジ以上にそれが顕著だったといえる。

まあ近代麻雀オリジナルとゴールドの廃刊等による発行ペース変更や休載期間があったのもあるが、
なんせ鷲巣とアカギの決戦「鷲巣麻雀」は僕が高校生の頃から開始され、決着に20年の月日を費やしているという異常な展開、
しかもその20年の中で最終6半荘目は特に凄い。
・死にかけた鷲巣が地獄に行って鬼退治すること約1年
・最終戦オーラス、たった1局に約3年

と改めて活字にすると「なんで編集が苦情を言わなかったんだろう」といいたくなる有り様であり、最後はもはや「この作品を最後まで麻雀漫画として楽しんで読んでた人はいたんだろうか?」といわれるような作品となってしまった。

が悪名高いスロー進行ばかりが知られる一方で、
麻雀漫画としての面白さを間違いなくもっているから高い人気と知名度が出た、という点も無視してはいけない。

・中学生編
・ニセアカギ・浦部編
ここら辺は以前に「天」の記事でも書いた、福本漫画ならではの綿密な組み立て、それにアカギの天才性も上手い具合に絡められており、この作品が高い人気を博した理由がよくわかる。


肝心の鷲巣編も、1回戦、2回戦あたりはテンポもよいし見ごたえもあって本当面白い。
そしてそれ以降の超スロー展開後も麻雀の内容自体は本当に「良く出来ている」という点が多い。
そもそも手牌の一部が透けて見える「鷲巣麻雀」というルール自体が当時としてはかなり斬新な発想であり、それを考案した事自体が凄い。
そしてそのなかで生まれる戦術と心理駆け引きは随所に見ごたえがある。

全巻発行完了した今となって改めて、
20巻あたりの5回戦終了まではかなり面白く読める作品だと思うし、是非読んで欲しい。
・・・・こうやって改めて書くと最終6回戦とエピローグだけで16巻=物語の半分近くを費やしてるってのが凄すぎる事実である。僕もこの記事書くにあたって20巻ちょいで挫折したし、途中で投げた読者も多いだろう^^;
そういう意味で25巻くらいで終わってくれれば本当に「名作」と太鼓判押したい作品だった言える。
が、上記の通りけして「ただの超スロー展開」漫画ではない。そうでなければここまでの知名度は得られなかっただろう。
最後に、いうまでも無く麻雀漫画というジャンルの世間における知名度を高めた功績を持っている作品だという点も明記したい。

でもやっぱ、「名作だからこそすんなり終わらせて欲しかった」が多くのファンの感想ではないだろうか、という率直な感想で当記事を締めようと思う。

●まとめ:麻雀漫画について書いてみる
http://susumutakenaka.blogspot.com/p/blog-page_57.html

2018年7月26日木曜日

高めと安めの落差が大きい手

「高めと安めの落差が大きい手」と言われたらどんな役を皆さん思い浮かべるだろうか?
典型的なのは三色同順だろう。
二三四七八⑥⑦⑧22678
一二三②③12378999


このようにタンヤオやチャンタに三色同順がからむと、安め1000点なのに高め12000なんて手が生まれる。
これらの形は見逃しとかフリテンリーチの典型例ともいえる形だ。
例えばこんな形
五六七八八⑤⑥⑦12346 ツモ5

ここからの1切りフリテンリーチなんかやよくある手である。
相手を足止めしつつの高め狙い。十分にリスクとリターンが噛み合ってる。
五六七八八⑤⑥⑦23456 


さて7/16(祝)にあったチャンピオンロードでちょっと珍しい形があった。
4着、1着、1着の+80程度で迎えた4回戦、
5回戦通過にはラスさえ引かなきゃOKだが、ここから先の事を考えると出来ればトップが欲しい、
そんな中での以下点数状況の南2局
東家 35000
南家(自分) 20000
西家 40000
北家 5000
そしてその状況下で中盤にこんな形のイーシャンテン
二三四四四七②④④44445 ドラ北

まあ普通に考えれば七切りだし、実際にそうした。
この時点ではまだ特に大きな迷いの要素は無かった。
が、「ツモ次第では色々と悩ましい事になるな」と思った矢先にまさに考えていた牌を持ってくる。
二三四四四②④④44445 ツモ④ ドラ 北

②を切れば以下の聴牌
二三四四四④④④44445 ドラ 北

タンヤオの両面をダマにするというのはあまりないケース、
しかし今回はさすがに二や三の手替わり(リーチで跳満確定両面)が強すぎる。
二二四四四④④④44445 ドラ 北

9巡目とギリギリ中盤なのもありダマを選択。
そして直後に西家が6を切ったが無論スルー。ここであがるならこの選択はしてない。
「はよ二か三引いて、、でも一か四なら引いたら4をカンもありだな・・・」
とか思っていたが11巡目のツモでまた悩む。
二三四四四④④④44445 ツモ6 ドラ 北

和了牌だがここでツモというなら最初からリーチしている。
よってフリテン受けにするのは迷わないのだ、問題はその選択である。
・二か三切ってタンキ手替わり待ちダマ
・二切ってフリテンリーチ

二切りリーチの多面待ちも良いが、
もう1手待てば三暗刻・三色同刻確定の完全タンキになるというのはやはり魅力的だ。
上記の通り、「優勝」という最終目標を考えるならこの手はできれば跳満クラスにしたい。
でも足きり回避という観点からある程度の和了をしてラスをさらに引き離したい状況でもある。
11巡目という終盤の入口、
の存在、
一がかなり序盤から3枚切れていて、二も三も1枚切れている(つまり二と三はまだ山にいてもおかしくない)、
色々と考えた結果二を切って曲げる
三四四四④④④444456  ドラ 北


そして2巡後に二をツモって和了。が、、、裏ものらずの1000-2000。
三四四四④④④444456 ツモ 二  ドラ 北 裏 七

結局この半荘は3着で終わった。
「三切ってダマにしてれば手替わり前にひょっこり二をツモって3000-6000だったか・・・」
とか思いつつもまあ三をツモる可能性だってあったしその点はやむなし。
ただまあ「三色同刻自体が珍しい役だし、それによってこんな風に高め安めの落差が激しくなる形ってレアだなー」と思ったのであった。

で、そんな事考えていた矢先の5回戦。
オーラスにてこんな和了を食らってあっさり敗退
五五⑦⑧⑨55588 ツモ⑤


三色同刻って出るときはあっさり出るもんなんだろうか・・・
そういや俺三色同刻の3倍満に今まで2回放銃したっけ。
1回は公式対局(第4期雀竜位A級)で「リーチ・一発・トイトイ・三暗刻・三色同刻・裏3」とか言われた。
もう一回もっと強烈な形だった。
五五⑤⑤⑧⑧⑨⑨55 
これに⑧で一発で打って、裏も⑧で三倍満36000で祝儀Pが35000点分とか言われた。
でもそれよりもあがった人に、
「ツモったら役満の祝儀Pももっと一杯入ったのに何で出すのよ!」って言われたのが一番心おれた。。。。

ちなみにあがったのは奥村って苗字の人だった気がします。協会員だった気もします。
数年の時を経てここに告発しました。キリッ

おしまい

2018年7月23日月曜日

萩原聖人のプロ雀士資格取得とMリーグ参戦について書いてみた(本音90%位)

何回も当ブログで書いてるが、
麻雀というゲームは実力と結果が必ずしも一致するとは限らない、
運の要素に結果が大きく左右される「不完全情報ゲーム」である。

だからこそ競技麻雀には大きな二つの思考傾向(潮流といういうべきか)がある。
・勝ち負けの結果が何よりも優先されるべき
・勝ち負けの結果よりも大事なものがある

どちらが正解かなんて結論の出しようがないのは当たり前、
でも僕が競技選手になってからの麻雀界のこの15年、
ギャラリーの多くはこの片方をもって競技選手批判して、選手側はもう片方をもって自己主張をする、そんな光景を何度も見てきた。

そしてここから更に言えば、麻雀プロという物に対する世間の意見も大きく2つに分かれる。
・競技選手は無価値な存在
・競技選手に価値はある

これもどっちが正しいかなんて結論は出せない話である。
そりゃたしかに「プロ=素人に負ける事が許されない」と考えるなら前者になるのだろうが、「麻雀のゲーム性をより深く理解してそれを戦略的に実戦している人」というのが無価値か否かというのも答えが出ないだろう。これはこちらの記事でも言及した「そもそもスポーツとは」という考え方もご参照を。
http://susumutakenaka.blogspot.com/2018/07/2018717m.html

ただ、この性質上どうしても「競技麻雀選手というのは一般愛好家のサンドバッグになる」という側面がある。
競技プロへのリスペクトとか好意とかよりもただ単純に「自分はプロを負かした」「自分はプロレベルの実力」と言いたいだけの人、
そしてそういう人にかぎり有事の際は「自分はプロじゃないから」と言ってくる、
つまり「プロって名義の逆利用」とでもいうべきか。
まあ別にそういう人を批判したいとかは無い。
それも楽しみ方の一つだとは思うし、
「麻雀プロはラーメン屋の主人」ってのが僕の持論であり、
麻雀プロを現時点でそんな高尚な物と思ってない。

ただそれでも一つ主張したいのは、
長くこの業界に携わっているからこそ、
「選手」として見える物や感じる物と、
「愛好家」として見える物や感じる物、
結構差があるという点です。
そしてそんな長い前置きから何が言いたいかと言えば先週末に大きくフューチャーされたこのニュースです。
『萩原聖人、プロ麻雀士の資格取得でMリーグ参加目指す』
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6290728

もう細かい話抜きにして、
まず僕の意見の総括は「第一期については萩原さんがMリーグに入るのは妥当」という物。
知名度的に全体に大きなプラスであり、実力的にもパフォーマーとして遜色は無いでしょう(超トップクラスと同等かと言われると僕の中では否かもですが)。

ただ不安というか懸念する点もあって、
それが上記に書いた通り「萩原さんは長く一般愛好家としてこの業界に接してきた」という点。

今回のMリーグ、その発足当初となるここ2,3年って、
多分業界のこの先数十年を大きく変える勝負になってくるのは、言うまでも無いでしょう。
萩原さんはコメントで「自分の麻雀人生の集大成」といった感を述べてますが、
業界としてはこれをようやくスタートラインに立ったという感が強いんですね。

ここで求められるのって、
各々の最高のパフォーマンスは勿論ですが、
参加する全21選手がお互いを引き立て合って最高のショーを届ける」って意識であり、
そこには「自分以外の全選手へのしっかりとしたリスペクト」って奴が不可欠だと思うのです。
特に麻雀だけではなく解説。
以前にも以下で書いたように、放送対局を「見せ物」として考えた時に解説の役割はある意味選手よりも大きくて、その役割をこなすのは高い知識と選手へのリスクペクトの両方が必要になる、というのが僕の持論です。
http://susumutakenaka.blogspot.com/2017/03/3.html

まあただこれは、
今回Mリーグに選ばれる全21選手について全員が持ってほしい点だと改めて明記したいです。
※まあ、そのレベルの人達は「今更お前なんかに言われるまでも無い」なんでしょうがw

麻雀プロは一人一人が「一国一城の主」であり、
それぞれの人がそれぞれの信念を持っていて、「自分が正しい」という前提がある。
その中で「相手は自分より上か下か」という意識は無意識にあるし、
そういった競争意識や価値観のぶつかりあいは業界をある意味では活性化させてる点もある。
凄い俗な言い方をすれば「自分は強い」と考えて相手を見下して優越感にひたる、この手の感覚無くして選手は強くなれないのかもしれません。
ヒューマニズムだけで強くなれりゃ苦労しない。誰でも名選手でしょ。

ただそれでも萩原さん含め(万が一萩原さんが選ばれずとも)、
今回選ばれる21人がこの業界の向こう数十年の夢を背負う事、
それを意識して全員がリスペクトを払いあって協力して面白いショーを届けてくれる事、
期待したいです。
スポンサーが払う巨額の金額に見合う物が得られなければ、
多分麻雀界はまた振り出しに戻ってしまう。
それは業界にとって絶対に阻止すべき事であり、その重責は計り知れないのですから。

なんかMリーグについてのかたっ苦しい記事が3個連続続いたのですが、
個人的にはそれ位に大きく期待しているイベントだと締めとしてもう一回書いときますかね。

、、、次の記事は久々に柔らかい事書きたいw

2018年7月19日木曜日

Mリーグから思う事をもうちょっとだけ書いてみる

ちょっとMリーグに関係してもう一つ記事を書こうかと

実は今回の件についてプレス発表前にちょっとだけ説明等を聞く機会を頂いたのだが、
その中で藤田社長が特に目の当たりにして苦労したとおっしゃってたのが、「麻雀に対する世間のイメージの悪さ」だったらしい。

最近の健康麻雀ブームやAbemaTVの影響で、世間には麻雀について良いイメージを持つ人が増えたというのは事実かもしれない。
が、企業ともなるとコンプライアンス遵守の問題で、「麻雀=賭博=刑法違反」という可能性からスポンサーになるのは問題がある、と考えを持つところが多かったとの事だった。
その中で社長の思いと説得が今回実を結んでのMリーグ実現、相当な時間と労力があったのは間違いないだろう。

改めて、僕が思う事は以前に連盟がイオングループと提携して麻雀教室を始めた時に書いた以下記事とほとんど一緒である。
https://susumutakenaka.blogspot.com/2017/11/blog-post_85.html

やっぱ一般社会での麻雀のイメージ向上に向けて今回の件が物凄い大きな種まきになってくれる事に期待してしまう。
かの黒人初のMLB選手ジャッキー・ロビンソン、彼の活躍が多くの白人の子供、そして更にその次世代の子達から人種差別という意識を無くしていったように、
Mリーグが多くの若者や子供の目に触れて麻雀を明るい物として理解させて欲しいところである。

そういえば昨年にこんなツイートが麻雀界で話題になったりした。

https://twitter.com/signbonbon/status/897424215220998146?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E897424215220998146&ref_url=http%3A%2F%2Fwww.scienceplus2ch.com%2Farchives%2F5425499.html



僕自身、
中学校の修学旅行にて友達と遊ぶためにカード麻雀を持って行って、先生がそれ見て凄い怒った事はよく覚えている。別にお金なんかかけてないし「隣でやってるポーカーと一体何が違うんだ・・・」と違和感を覚えた物だった。

そういえば去年に会社の後輩の女の子と麻雀の話題になって、セットをやったのだが、
その時彼女が「高校の時に”麻雀面白い”って言ったら親に”あんまり言わないほうが良い”って言われて、それ以来どうも言いづらかった」と打ち明けられたりもした。
この一年だけでもその手の話はちょくちょく見ている。

やっぱり「理由なき差別」を無くすためにこの業界は今が正念場、と思うわけで。


そりゃまあね、色々な思いもありますよ。
大企業が出す大量のスポンサー料に見合うだけのショーを見せれるか、という不安がある。
初の事例だし、これはおそらく今回のドラフトで選ばれるであろう人達が一番感じてるんじゃないだろうかと。

今のこの業界に対する思いもある。
どんな形であれ麻雀を愛していて、麻雀で生活している人やしてきた人が多くいるわけで、そういった人達も含めて今後麻雀界全体がより明るくなる道が出来れば理想的なんだがなあ、とか。

でもやっぱりまずはMリーグ、
競技麻雀を愛する人が一丸となって盛り上げなきゃいけない、
これだけは間違いない、と思うわけでありました。

2018年7月17日火曜日

2018年7月17日 Mリーグ発足

「スポーツ」という単語の定義は実は凄い曖昧である。
日本国内では「身体運動を伴う競技以外はスポーツと認めない」という考え方が強い一方で、
そもそもの意味合いは「一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりすること」という物であり、
海外では競技性があれば狩猟や競馬はもちろん、演奏やパズルもスポーツと称されるらしい。

そしておとなり韓国では「eスポーツ」という物が非常に盛んである。
コンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ・競技として捉える際の名称であり、
企業が認めたプロプレイヤーには年収億の人もいるらしい。

さて本日2018年7月17日が麻雀界にとって記念すべき日になった事は間違いない。
https://twitter.com/m_league_
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180717-00270973-nksports-spo

「Mリーグ」
参入企業7社がスポンサーになりプロ契約を結んだプレイヤーによるチーム戦を行う新しいリーグの発足、
システムの要点をあげれば
・各スポンサーがドラフト会議にて選んだ3名と年俸制の専属契約を結び、チーム戦に参加
・リーグ戦形式にて各チーム対抗戦を行う
とシステム自体は今までMONDO等でもあった団体対抗戦にも似たものとなる。
しかしこのスポンサーに名乗りを上げた7社が博報堂、電通、テレ朝、コナミ、セガサミー、U-NEXT、サイバーエージェントと超有名会社ばかり、その年俸金額も含めて麻雀界においてこんな規模の企業参入イベントは無論過去にない。あまりにも規模がバカでかすぎて比較対象すら見当たらない。
今回の企画を実現するためにおそらく我々の想定をはるかに超えるご尽力をしていただいた藤田社長の努力と情熱にただひたすら頭が下がる思いである。

そしてMリーグのコンセプトに見受けられるのはやはり「麻雀のeスポーツ化」という点である。
正直に僕は「eスポーツ」って物がどのような物か良く解らない。
麻雀というゲームは実力と結果が一致するとは限らない点が面白さでもある一方で、
「スポーツとしての面白さを実現できるか?」と言われると凄い難しい点もあると思う。
でも今回の企画に求められているのはそれになる。
つまり麻雀の持つ魅力や可能性について、選ばれた選手は勿論だけどそれ以外の人も含めて、業界の力を総動員して全力で伝えなきゃいけない物になるだろう。


8/7がドラフト会議との事。
僕もドラフト会場にはいく、かもです^^;
選ばれる可能性なんて低すぎるのでガヤとしてだけど・・・^^;
まあ今回については僕自身よりもやっぱり「協会から出来る限り多く選ばれてほしい」って点が希望するとこかな。
だけど連盟とか最高位さんには押されるだろうなあ・・・と思ったりもする。

ただ来年以降にMリーグがもっと大きい物になった時、
出来る限り多くの人数が協会からさらに選ばれるように、
協会のブランド価値向上の為に一人一人が麻雀の質は勿論それ以外の点も含めた研磨をしていかなきゃなあ、と思う次第。


そして数年後にもっと大きな規模になった時、
その中の一人に自分がいる事をちょっと本気で目指したいし、
その為に業界関係者としてMリーグに盛り上がってほしいし盛り上げたい、と思う次第であります。
個人的には今年のリーグ戦頑張って昇級して、自分が選ばれる理由を一つでも作り上げたいかな。。。いや、可能性は低くても夢は大きくね。(その意識は全麻雀プロが持つべきかと思うし)

改めてMリーグ、本当に楽しみ。

2018年7月13日金曜日

「子育て」ってやつの難しさ

ちょっと前にツイッターでこんな記事を見かけた。
なんというか、まっすぐな子供心が胸にささってちょっと切ない文章だった。
https://twitter.com/joker_masiro/status/1012684573270990849


今37歳になって改めて振り返ると、
自分の両親が自分にしっかり愛情を与えてくれた事は結構解る。
しっかりした家庭で自分を何不自由なく育ててくれた事に感謝も尽きない。

だがそれでも敢えて言えば、
自分たちの両親(特に母)は子育てについて色々と稚拙だったんじゃないかなあ、と思う点もあったりする。

別にこれは僕だけが感じる事じゃないのかもしれない。
だって子育てなんて90%以上の親がほぼ初めての経験、子供を「人生の初心者」とでもいうなら親も「子育ての初心者」という中であれやこれやと努力をする訳だ。
そしてその子育ての方法が正しかったか否かが解るのは子供が大きくなったときであり、PDCAなんて物を回すこともできない。
結果が見えてきたときには既に一人の人間という物が形成されており、失敗の挽回が出来ない点が多々ある、
そう考えると子育てとは恐ろしい。

僕が敬愛する数少ない人間の一人に水谷修さんという教育者の方がいる。
この方は非行に走る未成年の更生等に特に尽力している先生なのだが、
いくつかの講演にて「子育てで一番大事な心構え」を以下の様に述べている

子供を「叱った回数」「ほめた回数」どっちが多いか?
こう聞くとほぼすべての親が「叱った回数」と答えます
確かに叱るという行為も必要でしょう。
でも叱るという行為は実は子育てを簡略化する、つまり「親が楽をする為の手段」として用いられる事が多いのです。
一方でほめるという行為は「ほめるべき部分」を見つける等の労力が必要だし、親としても非常に手間がかかります。
でも子供をほめずに叱る行為を中心にして育てると、子供は「叱られないようにしなきゃ」と減点を恐れるようになります。そして、その子の創造性や人間性はどんどん殺されていくのです。何よりも子供自身が親の愛情のすばらしさを理解できずに育ちます。
言うなら「しっかり子供をほめる事」、つまり「手間と愛情を与えてあげる事」、これは塾に通わせる事なんかよりも子供の才能を遥かに伸ばすことになります。そして優しさや社会性もはぐくむのです。



さて改めて、
子供を叱る親の行為、
これ自体は完全悪ではないが、それでもやはり1回叱るなら1回ほめる、という精神をもつべきと個人的には考える。
これは先述の水谷先生の言う通り、叱るだけの教育がその子の人間性や創造性を削る=親が望むような優秀な子にならない、という点もあるが、
僕としては「子供が大きくなった時、親に好意や敬意を持たなくなる」という危険性を主張しときたい。
何故ならば叱る=減点法をメインとして育てられた子供は、
その子自身も基本的には減点法で他人を評価する人間になる、
そうなると自分をひたすら叱ってきた親を大量の「叱られた」という減点をもとに評価する可能性が高い、と思うからである

僕自身のぶっちゃけ話をすれば、
教育熱心な母親にただひたすら叱られた子供時代を過ごした中、
20代の頃はものすごい険悪な関係を経て、
今父親の色々な介護をしている母の姿を見たり色々と経てようやくちょっと見直してきた、
ってのが偽らざる本音です。薄情なのかもしれないけど。
でも
「生んでくれた恩知らず」
「育てくれた恩知らず」
それを”恩”と感じるかも含めて子育てって難しいんじゃなかろうか、とおもうわけで

でも「じゃあ具体的にどうすりゃいいんだ」なんて僕がこたえられるわけもないw
というか上述の通り、その答えが見えてる人は既に子育てを終えてる人であるケースが多い訳で、、、、
やっぱ人生でこれ以上に「やり直しがきかない」って事象も珍しい。恐ろしい、子育て・・・・


さて今回はそんな子育ての話題から、
「麻雀の教え方」についての話につなげたかったのだが、
長くなったので一旦切る。

続く

2018年7月11日水曜日

手出しツモ切りってぶっちゃけ見る必要あるか? その3

さて前回の続き
戦略的には「読み」という行為は効果が低い点は否めない中、
何故競技選手は手出しツモ切りをチェックする必要性があるか?という点についての僕の結論
http://susumutakenaka.blogspot.com/2018/07/blog-post_9.html

ここで唐突なのですが、
僕がこよなく愛する名作漫画の一つ「バーテンダー」のとあるエピソードについて書こうかと。

※名作なので是非読むのを勧める作品
ピックアップするのは8巻の「バーテンダーの魂」という回。
この話の中で主人公佐々倉は新任のホテルマンに「貴方の職業であるバーテンダーの魂を表現するカクテルを作って欲しい」と言われ、
その回答として「スプモーニ」というカクテルを作ります。

レシピは
・カンパリ
・グレープフルーツジュース
・トニックウォーター
カンパリのほのかな苦味とグレープフルーツやトニックによる爽快な飲み口、
広く長く愛され続けているロングカクテルの定番の一つです。

そしてこのスプモーニ、
実は「ゴールデンレシピ」と呼ばれるものの一つでもあります。
これは「誰が作っても簡単に美味しくできるレシピ」であり、
これについて言えば、
グレープフルーツとトニックウォーターは非常に相性が良く、カンパリだけでなく大体のお酒とまぜても美味しく飲める、
しかも分量が多少ずれても全く問題はありません。

では何故これが「バーテンダーの魂」なのか?
これについて佐々倉は以下のように述べるのです
『たとえばマティーニの味はアマチュアとプロとでは全く違います。
逆にスプモーニのように誰が作ってもおいしいカクテルでは、プロならではの違いを出すのは非常に難しい。
でもトニックの量、氷の形、ステアの方法まで、こういった小さな努力の積み重ねがプロの味を作るのです。
そして違いが小さくなればなるほど実は注ぎ込まれる努力は大きくなっていきます。その努力を永遠に続けられるかどうかがプロとアマチュアの違いでしょう。


「科学する麻雀」によって麻雀戦術研究に「合理性」「論理性」がもたらされた時、
多くの競技選手が忘れてはいけないこの原点を忘れていたのではないか、というのが僕の私見です。

つまりこれはもうどんなジャンルを問わずとも
「競技選手というのは0.00001%でも勝率をあげれる要素があるならそれはどんなに労力をかけても拾うべきだから」

他の例をあげるなら、
たとえば陸上競技は0.1秒、0.01秒という日常からすれば酷く無意味な物の為に各選手は一般人からは考えられない修練を積みます。
たとえば芸術分野の職人は、機械を作れば幾らでも効率的に安定した質の物が作れる今でも、機械では出せないクオリティの物を手作業で非効率的に作成している。
要するに一部の専門家が拘るべき点はそういった「日常的・商業的な効率から離れた徹底した質への拘り」だからです。
そして麻雀プロもその原点はやはり忘れてはならない。
僕自身の目標を言えば、手出しツモ切り以外のもっと細かい情報(相手の目線、どこにしまったか等)も全部鮮明に記憶して戦術に役立てたい、が本音。難しいですけどね^^;

んでもう一つ、僕が勧める理由、
それは「ちゃんと手出しツモ切りを見たほうが麻雀が楽しいから」。

視野が広いほど、
拾える情報が多いほど、
競技麻雀は楽しいんですよ。

例えば配牌をとったときに、
これはどういう風に進んでいくのか方向性を決めてから打ったほうが楽しいし、目標に向かっての達成感もある。同じ和了するにしても。
ただ牌を持ってきて和了するだけでは点棒しか残らなくて、
目的意識もないし構想力も低いままになる。

読みも同じで、
相手からしっかり情報をひろったからこそ拾える安全情報・危険情報があって、
これと目的を掛け合わせてキッチリと選択をするからこそ、
大局観というやつがより育っていくのです。

結局こういった細かい情報やそれらを組み立てた戦術を作れる人ほど、
競技麻雀を楽しめているんです。
だからもっと勉強したくなる。
差が開く一方になるわけですね。

というわけで3回に続いた総論は、
「競技選手ならキッチリ手出しツモ切りを見る努力をしましょう。それがプロです。そしてその方が楽しいです」
「でも基本的押し引き等の勉強も忘れずに。まずはそっちをしっかり抑えてください。」
以上!





あ、そういや手出し・ツモ切り覚える為のコツ書くの忘れてた。
① 目でちゃんと追う
② 各自の最後の手出し1枚だけ(つまり合計3枚だけ)を頭の中で復唱しながら覚えとく
です。シンプルですがこれが効果的。
これ続けてるとそのうちに最後の1枚以外もおぼろげながら記憶できるようになります。
最初は集中力そがれて手牌進行とかでミスみする人もいるかもしれませんが、慣れです慣れ。これを意識して続ければ次第に無意識にやってますよ。多分。
選手の人には難しい事考えずに「もっと麻雀楽しむためにやってみるか」って考えてトライしてみてほしいと思う次第。

おしまい

2018年7月9日月曜日

手出しツモ切りってぶっちゃけ見る必要あるか? その2

さて前回の続き。
「②競技プロの中でも手出しツモ切りをしっかりとは見てない、そしてほとんど記憶してない人は結構いると思う」について。
ただし厳密な数字なんて出せるはずもないので、
今回は「無視する人が多い背景」とか僕の見解について触れてこうかと。
http://susumutakenaka.blogspot.com/2018/07/blog-post_6.html

まずこの無視する人が多い背景、
単純に「全体的な力が不足している人」これが大半であるw
まあよーするに「覚えられない」「見る余裕が無い」だ。
が、「あえて無視している」という人もいるのだ。
というか10年前の「科学する麻雀」全盛期ではそれをする人がもっと多かった。

そもそもこの当時、多くの打ち手がとり付かれたのが「古い理論の否定」だった。
・迷彩打ちは無意味
・一点読みは不可能
・愚形リーチもどんどん打つべき
そんな多くの「否定」の一つに当然「読みの否定」もあり、
昔からささやかれてきた「裏スジ」「間4ケン」、これらを「科学する麻雀」は統計を用いて「無意味」と切り捨て、
「読みという技術は価値が低い」→「手出しツモ切りは見る意味が無い」、と提唱し、
競技プロの中にもそれを実行した物が多く出たわけである。
僕自身も高校生の時から、
「宣言牌のマタギ筋とかはまだしも、裏スジってのがそこまで危険な理由が良く解らない」と思っていたし。

旧セオリーには明らかに理論として成立していない部分があったのは事実だろう。
ただこの完全無視が、「今となっては間違ってた。極論だった。」と思う一方で、
この極論に正しい部分があった、というか正しい部分が多かった、とも思う。

そして僕は後輩等に「読みの大事さ」ってあまり説く事がない。
というのも巷には「読みという技術を神格化している人」というのが今でもゴロゴロいるからである。
既述の通り、「読み」というのは戦術において最後の上乗せとなる部分で、
これよりも効果的で実践的で成績に影響を強く及ぼす部分は山ほどあるし、
下手をすると足を引っ張る局面もある。

にもかかわらず、
麻雀漫画の影響なのか、
昔の有名プロの影響なのか、
やたらと読みを必死にする人がいるのである。
「強い人=相手の手を読める人」
「強い人=相手のロン牌を一点止め出来る人」
という考えは今でも根強く残っている。
だから今でもフリー雀荘等では流局時に「ロン牌止めたよアピール」をする人が多々いるのであるw

ただこういった人達はそもそも全体のスキル不足で相手の手出しツモ切りなんてロクに見てない。
だからあまり問題でもないただの「自己アピールしたいタイプ」であり、
問題は「読みを大事にし過ぎる故に全体のバランスを軽視する」という最悪のタイプである



昔、
後輩に島村君(仮)という子がいた。
彼はとにかく「読み」に熱心だった。

実際に一緒にセットを打っていても、
「ピンズの形は・・・・ですよね?」
「8打目の9s切りはスライドで、ソーズのメンツは678ですよね?」
とか、こっちの手牌推測のアプローチに御熱心だったし、
彼が麻雀が好きなのは伝わってきたし、
そんなにスペック低い打ち手ではなかったのかもとも思う。
実際にその観察力と推察力=読み能力は、僕なんかより上だっただろう。

ただ競技をするうえで彼がセンス不足なのは話をしていても明確だった。
読みに対する高すぎる意識、
打点ばかりを追って他を軽視する手牌進行プラン、
本人には言わねど多くの打ち手が「実力不足」「バランスが悪すぎる」と明確に感じていた。
にもかかわらず当人は自身の美学や、上述の一部だけの突出したスキルを基に、
「最近は量産型の小倉孝みたいな打ち手が多すぎる」
「僕の打ち方は一発裏ドラありには向いていない」
といった見解を述べていた。

つまり一部のスキルがあるゆえに自身の全体バランスの悪さ=実力の低さが却って見えない物となっていたわけで
結果として彼は競技選手としての稚拙な点を増やし続け実績を全く出せずに引退していったのである。

こうなって来ると、
まだ何も知らない若手、とかよりも圧倒的にたちが悪くなる=伸びしろがなくなるし、成績も出しづらい。
しかも「成績を出せない時期」が長くなると、「今更打ち方を変えるのは自分への否定」という無意味なプライドまで出てくる。
打ち手が打ち方を変えるのなんて長くやってりゃ当たり前で、それを拒む強い打ち手なんているはずもないのに、である。

彼のような例をちょっとだけだが見てきたからこそ
「読み」のような細部技術の大事さ、これをどうやって伝えるのかはいまだに難しいし、
「無視している人が多い方が却って健全」とすら僕としちゃ思ってしまう、
という点も実はあったりする。
それが神格化されてた技術ゆえになおさらである。


さて、ちょっと話が脱線しすぎたので戻そう。
このような背景をふまえても、それでも僕は「手出しツモ切りを見る」という行為を競技選手に勧める、その理由の詳細やお勧めする実践方法、これを改めて次回記事で記して締めとしようと思う。

それを読んで「今からでも読みを頑張ろう」と思う人が出てくれればうれしいが、
この日記で書いたように「あくまで全体のバランスこそ大事」「読みは所詮細部技術にすぎない」という点はお忘れなく。

あと今回の一連記事で話題に上がった「科学する麻雀」のレビュー記事のリンクもはっときます、
興味ある方は是非^^
https://susumutakenaka.blogspot.com/2016/12/blog-post_31.html

2018年7月6日金曜日

手出しツモ切りってぶっちゃけ見る必要あるか? その1

「あなたは手出し、ツモ切りをどの程度見ていますか?」
この質問は麻雀を長く打っている人なら受けた経験がある人が大半ではないだろうか。

そして競技プロの場合、
「プロってやっぱり全部の手出しツモ切りを覚えている物なんでしょうか?」
という質問を受けた事が何回かあるし、興味のある愛好家の方はやはりいると思われる。

今日はちょっとこの点についてのぶっちゃけ話をしたいかと。

結論をまず述べる
① 他家全員の捨て牌を完璧に記憶している選手はおそらく0人
僕自身について言えば、他家3人の手出し・ツモ切りをすべて「目視=チェック」はしている。
そして、「直近の手出し1枚が何だったか?」だけは意識的に覚える様にしている。
しかし全捨て牌の手出し・ツモ切りを覚えるというのは瞬間記憶能力でも持ってなきゃ無理だと思う。

② 競技プロの中でも手出しツモ切りをしっかりとは見てない、そしてほとんど記憶してない人は結構いると思う
厳密なアンケ等はとってない。よって真相は闇である。
が、僕の意見は「下手をすると半数以上の選手がほとんど無視してる」である。
ぶっちゃけて言えば僕自身、プロ4年目位まではほとんど見ていなかった。
これはまあ「科学する麻雀」の全盛期、つまり「手出しツモ切り確認不要論」の全盛期だった故もある。
そしてそれをすべてチェックするようになったのは「このままじゃダメだ」と意識改革して無理やり習慣づけた結果だ。


さてこれらについて多少深堀りをしよう。
まず①「他家全員の捨て牌を完璧に記憶している選手はおそらく0人」

捨て牌というのはいわば断片的な情報となるケースが多く、手牌とは訳が違う。
そして人間の記憶力と言うのは正直にそこまで精密な物ではない。

例えばこれは昨日の研究会であったとある手牌
一一二二三①②⑦122667 ドラ⑥

・123の三色になりそうでならない
・ドラの⑥のくっつきがあるから⑦も切りたくない
・チートイの目もある
・切るならピンズ①②もしくはソーズ1あたり

とこんな具合に、
手牌というやつは13、14枚が持つ連携性や全体のビジョンを基に結構簡単に記憶が出来る。
が、捨て牌といのはどうしても断片的になる。

八九西白⑥發①七11白67東

上記と同様の14枚の捨て牌、
でもこれを記憶できる人と言うのはかなり凄い能力を持っている特別な人とかだろう。
これに切り出しの順番、手出し・ツモ切りという情報がプラスされたとして、
そんなものを3人分、毎局記憶できる人なんているとしても漫画の世界だけではなかろうか。
一流のトップ選手でもおそらく無理だろうし、そもそも記憶する意味もないのだ。

ただまあ完全な記憶はせずとも、
とりあえず目視をして断片的な情報は覚える、
こういった事は当然している。

例えば先ほどの捨て牌、これを全てを手出しとする。(そもそもそれをしっかり見るのが労力かかるのだが)
そうなると色々と情報が見えてくる。
主な部分をハイライトしよう。

八九西白⑥發①1167東
・マンズのペンチャン外し
・普通なら有効度が高い⑥より①が後処理。
・1のトイツ落とし
・索子の両面落としのあと字牌

とこんな具合に断片的ながら意味合いのある情報が拾える、
こういった点はチェックしてある程度記憶はするし、
その精度はトップ選手になるほどもちろん高い人が多い。


が、既述の通り「全て完璧に記憶」というのは不可能だろうし、そもそもする意味も非常に薄い。
改めて冒頭の「プロってやっぱり全部の手出しツモ切りを覚えている物なんでしょうか?」に回答するなら。
トップ選手にもなれば出来る限りチェックしている人が大半だし、意味合いがありそうな情報は拾うし、記憶もしている。でも全て記憶出来る人はおそらくいない
である。

さて、一方で②についての話。
改めて「手出しツモ切りをほとんど見てすらいない競技プロ」、
というのは世間の想像以上に多い割合で存在する、というのが僕の予想である。(自白する人はあまりいないだろうが^^;)
これは僕自身も無視していた過去があるからこそ、そう思っている。

これには理由があって、以前にも書いたように「読みという技術自体が労力の割には勝敗に寄与しない」から、つまり手出しツモ切り確認自体が徒労になるケースが多い、という側面を持っているからである。
https://susumutakenaka.blogspot.com/2018/03/blog-post_28.html

実際に片山先生のおバカミーコの中でも「手出し・ツモ切りは見るな」という回がある位だし、
僕が初心者・中級者に戦術を教えるとしても「見なくていい」と言うだろう。
読み、そしてその根幹であるこの技術要素はやはり労力に見合わない点が多く、「フリー麻雀で勝ちたい」位のレベルで考えるのであれば”不要”と結論づけても過言ではない。
でもそれでも、僕はやはり「チェックした方がいい」と10年ほど前に結論付けたからこそ、現在もやってるし、「あの時意識改革しといてよかった」と思っている。
実際10年前は本当に「不要論」の全盛期だったし、バカにされた事もあった。いやマジで。

そんな経験も踏まえて②「競技プロの中でも手出しツモ切りをしっかりとは見てない、そしてほとんど記憶してない人は結構いると思う」の話をもうちょっと深堀りした記事に続く。

違う記事挟むかもだけど。

つづく

2018年7月4日水曜日

我々が”勝負”に魅了され愛してやまない理由を考えた

「勝負事には”流れ”がある」
これはギャンブルだけでなくスポーツにおいても昔から常々言われている事である。

「ここはしっかり守って流れを相手に渡さない事が大事です」
「ここでしっかり加点してまずは悪い流れを断ち切りたいですね」
スポーツの解説者のこんなセリフはよく聞くし、
麻雀の解説でも「流れ」という言葉は出てくる。

んで、
「流れ」というのは心理学でいうと「クラスター錯覚」という現象に分類される。
「ランダムに起こるべきある出来事がまとまって起こったとき、それをランダムでないと錯覚してしまうこと」

例えば、
コイン投げで表が続けて4回出たら「偏り」とみなす人がいるかもしれないが、
20回連続してコインを投げた場合、表が続けて4回出る確率は50%ある。むしろ確率どおりの数値で結果が交互に出る方が珍しい。
よーするにある程度の偏りっていうのは当たり前で、それらはむしろランダム性の立証とさえいえるわけだ。


クラスター錯覚については、近代様々な分野で統計が勧められ、それが”幻想”という結論が多方面で出ている。
多くのギャンブルは勿論だが一番個人的に興味をそそられた事例は、バスケットボールの「ホットハンド」を題材 とした研究。

バスケットボー ルでは昔から選手・コーチ・ファンとも、選手に「hot steaks」(熱い乗り)と「cold streaks」(冷めた乗り)があるという考え方があった。
しかし1900年代後半にて複数チームを対象にし2シーズン中のシュートを決めた選手について詳細に調査を行なった所、
選手はシュートを連続して決めたり外したりするが、それは確率的に期待される以上のものにはなって無いという結論に至っている。
つまり「ホットハンド」は確率の範疇は抜けてないただの錯覚、という統計的見解が出たわけだ。

だが「ホットハンド」の信者達にこの統計を見せたところ、
出てきたのは拒絶反応だったケースが大半だったという。
「我々は経験のおかげでバスケットというゲームを”もっと良く解っている”」、
麻雀においてもオカルト信者から大体よく聞くようなこの手の発言、他分野でもよくある事のようだ。

結局こういった勝負におけるクラスター錯覚は、2000年代においてほぼ立証されつつあるのが現状だ。
麻雀においても「勝つための戦術」として流れの重要性を語る人は、2000年代においては減少しているのは事実だろう。それでも根強い信者は無論未だにいるが。
ただ僕自身もそういった点を戦術として組み込む事には悲観的だし、する意味も感じない。まさに「錯覚」と考えている。


でもそれはあくまで競技選手としての目線であり、
異なる他の視点からすると、それを信じるか否か、否定して捨てるか否か、というのは全く別問題である。

「神は死んだ」と呼ばれる科学全盛のこの時代でも、
紀元前と同様に宗教という存在がいまだに亡くならないのは何故か?
多くの日本人がこのネット社会においても大自然や宇宙に強い感動を覚えそこに神秘を感じるのは何故か?


W杯2018、
日本vsベルギー戦、
日本中が歓喜し、そして涙したこの戦い、
おそらく僕だけじゃなくて多くの人が、後半ベルギーが初得点を挙げたあの瞬間、
相手のセンタリングの上げそこねともとれるような微妙な球が日本のゴールを揺らした瞬間に、
「勝負の流れが変わった」
「微笑み続けた勝負の女神がそっぽを向いた」
そんな事を思ったのではなかろうか。

日本にミスがあったか?
おそらくあったとも思う。
それが元になり流れが変わったのかもしれない。
でもそれも含めて「流れ」でありドラマなのだろう。

ちなみに機械同士の戦いではこういった逆転劇はあまり生まれない。
典型例として、AI将棋ソフト同士が戦った場合、大体の試合は序盤にリードした方がそのまま勝ち切る。理由はAIは凡ミスをしないからである。

「流れ」というやつは多分終わってみればの結果論なのかもしれない。
でも人間同士が戦うから、勝負に流れと呼ばれる逆転要素が生まれる。
つまり人間同士が戦うからこそ人々を魅了する神秘的な物が生まれる。
勝負事における人間にはあがえない運命的な力、その存在の可能性に、多くの人が魅了される。
今回のW杯を通してそんな「勝負という物が人々を魅了してやまない理由」これを思い出した気がした。


思えば今回のW杯における日本の下馬評は最低だった。
でも選手たちはコロンビア戦の勝利をもとにベスト16にすすむ見事な逆転劇で我々を魅了し、
最後まで本当に我々を楽しませてくれた。

日本中を魅了し、
僕自身には勝負の面白さって奴も改めて思い出させてくれた日本代表に改めて感謝の意を述べたい。

サッカー日本代表の皆さん、本当にお疲れ様でした。
多分今回のW杯の記憶は僕の中でずっと残ると思います。
ありがとうございました!

多分僕がサッカーファンになるのは次の3年後とかだけど、その際はまた是非楽しませてください!w

2018年7月2日月曜日

サッカーW杯の日本とポーランドとベルギーを見て思った勝負論について

先週日本中で話題になったサッカーW杯の日本vsポーランド戦、
予選突破を目指し後半に負けている状態にもかかわらず異例ともいえるような長時間の消極的プレイをした日本代表に対して、
国内外から色々な賛否が出ている。
https://news.yahoo.co.jp/byline/suzukiyuji/20180702-00087790/

勝負事って難しい、と改めて思う。
1対1の純粋な殴り合いの結果のみが物をいう形式ならともかく、この手のグループリーグにはサッカーに限らずこういう事態が生まれる可能性がある。
もしもサッカーに「投了=ギブアップ」があったら、日本代表は残りの15分間を投了したかっただろうし、ポーランドに関しちゃもっとそうだったかもしれない。

更に言えば、
どんな競技にも観客サイドにはどうしても「エキサイティングな試合=熱戦が見たい」って思いがある。
たとえば麻雀において
① リードしている人がミスなく完璧に試合を進め、完勝する試合
② リードしている人が途中でミスして逆転される試合 → 逆転後、今後は逆側にもミスが出て再度ひっくり返されるシーソーゲーム
こんな2種類の試合をニコ生でアンケート取ったとする。
おそらく圧倒的に②が「1 とても面白かった」を多く獲得するだろう。
以前にも書いたが逆転劇とは言うならお互いのミスで生まれる「泥試合」の要素を持っている。
https://susumutakenaka.blogspot.com/2017/02/blog-post_49.html

①の試合、
優勝者の完璧な試合運びが却って多くのギャラリーに「凡戦」とみなされてしまうのは皮肉な話である。

今回の西野ジャパンの采配について言えば、
一番勝率が高いプロフェッショナルの選択が、
まあ百歩譲ってその日会場で試合見てた人達には「つまらない」とうつったのは上記グループリーグの性質上やむをえないが、
それ以外の特に日本国民から非難が飛ぶのは何ともおかしな話、と個人的には思うわけだ。
「勝つための徹底」
「スキを出来る限りなくす戦術」
伝わりにくいよなあ、と思うわけである。

麻雀だったらそれを伝えるのは主に解説の仕事であり、
だからこそ僕はそういった意識が低い解説ってのは席に座ってほしくないと・・・(まあこれは前も書いたし、機会があればまた今度)

まあこの話題は既に色々なところで出ているからこれくらいにするとして、
問題は明日早朝のベルギー戦である。

現在FIFAランク3位。
近年ヨーロッパで最強国の一つに挙げられている「赤い悪魔」、
勝ち目は薄い、というかこれに勝っても次はブラジルの可能性濃厚、
DQに例えるなら「りゅうおう」倒したら次は「シドー」ってレベルのラスボス連戦である。

正直に翌日早朝で日本代表の戦いが終わる可能性が濃厚だろうし、
本田圭佑も「ベルギーは僕らと当たることに対して、すごくラッキーに思っていると思う」と以下で語っている。
https://www.hochi.co.jp/soccer/worldcup/CO034053/20180701-OHT1T50086.html

ただまあ、
この記事で僕が一番「その通り」って思ったのは最後の彼のセリフ
―ベルギーの弱点を突くためにも遊び心が必要か。
「遊び心は一人一人が持てるかどうか。持てと言って持てるもんじゃない。言葉として、若い選手の頭に入れておくのは価値あることかなと思っている」


遊び心
言うならある種の余裕。
大事ですよね。
100%の実力を出すためには「ミスをしちゃいけない」って自分を追い詰める精神より、
実は「多くのギャラリーの前で堂々とミスをして負けてやる。かわりにそれがうまく行けば今日のMVPは俺!」位のある種のふてぶてしさが必要だったりする。


多くの経験を積んで批判とかを受けてきたからこそこの舞台でその重要性を語れる、それを若手に特に伝えたいと願う、そんな本田が凄いカッコよく思えた。
僕サッカーなんて4年に1回好きになる位のにわかファンだけど、
本田の事は「じゅんいちダビッドソンのそっくりさん」と思ってた時もあったし、
この記事とか今回のW杯の彼の一連の動向見ててちょっと彼のファンになりました。
今日のベルギー戦、奇跡を起こせるならやっぱ彼かもなあ、とか思うレベル。

麻雀プロの若手も、この「遊び心」をちょっと頭の片隅には入れといてほしいと思うのです。
「ギャラリー数万のニコ生で自分しかしないようなミスしてもいいから打ちたいように打ってやる」位の精神ね。

ちょっと伝えにくいんだけど、結構大事なんです遊び心って。