2017年3月10日金曜日

麻雀プロのネット対局についてのお話 その3

記事の続き
あくまで私見です!
http://susumutakenaka.blogspot.jp/2017/03/2_3.html

さて前回も書いた、麻雀界における「魅せる」という単語、
この数年で対局放送が増えた中、「打ち手よりも解説が意識すべき」という点を個人的には感じているし、業界全体が強く認識し始めているとも感じる。

改めて麻雀生放送というコンテンツを考えると、
①映像(打ち手による対局)
②音声(実況、解説)
という二つの要素から成り立っている。

ここで最近改めて思う点が、
「映像だけで全てを把握できるほど知識のある視聴者はほぼ皆無(業界関係者除く)」という点、
つまり解説次第で視聴者が受ける印象は強烈なまでに変わる点である。

これを伝える例としてちょっと将棋の話を。
僕は将棋の対局をたまにネットやTVでちょくちょく見る。
でも正直にあまり知識が深くない。映像だけじゃ勝負どころもほとんど見えないライトファンである。
でもそんな僕でもある程度楽しく将棋を見れるのは、やはりもう解説の力なのである。
勝負どころや、その勝負の概況をきっちり伝えてくれる存在がやはり大きい。
というか解説無しの対局風景だけの映像はとても見る気にはならない。

そしてその前提がある以上、
解説が拾わない技術は拾えないし、凄い一手かもわからない。
この一事だけで解説にどれだけの責任があるかは言うまでもない。
打ち手の技をしっかりと拾える知識と視点、そしてそれを伝える話術、
これらが備わっていない解説が対局放送のクオリティを下げることになる。

が、しかし更に重要な点がそれ以外にある。それは「面白い放送を届けなくてはいけない」という責任感である。



ネット生放送の開始当初、
「自分が放送のクオリティに責任を負うべき立場にいる、という事を自覚していないのでは?」と感じさせる解説者の方が、多少いたのは残念ながら事実ではないだろうか。

この考え方を持っている解説の方なら、「自分の自慢」「打ち手批判」というのがあまり意味が無い点を想像できるはずだからだ。
まあ別に「選手をひたすら褒める解説」が面白いわけではないし、時折含む苦さというのは重要な隠し味だし、批判解説も人によっては好きだろう。


だがたとえばスポーツの試合とかで
「この試合は本当に酷い試合だ」と解説が言っていて、面白く感じる人がいるだろうか?
「俺の方が強い!」と解説が連呼していて、それが視聴者が楽しむ足しに常になるだろうか?
ほかにもTVの通販で
「この商品は本当に酷い!」とか言っていて、それを買う人がいるだろうか?

 解説が「良い対局です」と言えば多くの視聴者にはよく見えるし、 解説が「酷い対局です」と言えば多くの視聴者には酷く見える。
そして解説者とは「面白い放送」を届ける責任をおっている以上、客をたのしませる前提で話をするべきだろう。
考えてみれば当たり前だが、その事実を気付くのに麻雀界は多少なりともの時間を費やしたようにも見える。何より僕自身の話をしても「解説なんて喋ってればOK」程度に考えていた恥ずかしい時期がある。

さて総論として、
麻雀放送にとって対局とは素材であり、解説者とは料理人のようなものである。
そう考えるとやはり「楽しませる」という意識の無い人が解説はやるべきではないし、
「プロはギャラリーに魅せるべき」と言うのであれば、解説の時にそれを更に意識すべきでだろう。
※ただ、「選手」とは麻雀に対する価値観で当然譲れない点であり、このバランスが非常に難しい問題もあるが^^;

最後にもう一つ。
僕は選手視点で、「解説は出来る限り現役選手にやってほしい」とも思っている。
というのも、実際に一生に一度クラスの決勝の場を解説された立場の人間でないと、
「解説者は基本的には打ち手の視点を拾えない」という事実を実感できないからである。
これは
①打ち手が自分視点だけで考えるのに対して解説は4人視点=一人の視点への入り込みはどうしても薄くなる
②本気で集中をしている選手と比べて解説の集中力は遠く及ばない、
という点を自覚できないケースが多いからである。

まあでも片山まさゆき先生の解説はすばらしいと思っている。
これは先生の麻雀知識はもちろんだが、先述の通り「自分が放送の品質に責任を持つべき立場という自覚」が随所に見えるからだ。
そう考えるとやっぱり解説に必要なのは技術、そしてそれ以上に「サービス精神」なんだろう。

あってるかは知らないがw