※一応断っておくと、この文章はあくまで僕の主観です。あしからず。
かなり前に「麻雀とはラーメンやカレーのような大衆食」と書いた事があるのですが、
そんなラーメンについての漫画で「ラーメン発見伝」という有名な作品があります。まあ結構な長編作品なので僕も読んだのは去年なのですがw
そしてその続編「ラーメン才遊記」の中で「ラーメンとはフェイクである」という一節があります。
「ラーメンとは化学調味料をはじめとした手早く安く美味しい物を作る”フェイクありき”で発達し人気を獲得していった独自の食文化」
という意味でつかわれているんですが、
結構競技麻雀もこれに近い点をもっている独自文化だったりするんじゃないかと思って文章書いてみたくなり。
競技麻雀のルーツが何かといわれればやはり外せないのが1976年に創設された最高位戦でしょう。
この時の考えは「選ばれた本当に強い人たちで半荘100回を打てば誰がNo1かハッキリする」という物でした。
これを聞いた時、
現代にてある程度麻雀のゲーム性を理解している人なら「そもそも出場者を決める基準は?」「100回なんかで何が解るの?」になるんじゃないでしょうか。
統計分析や研究が進んだ今となっては突っ込みどころだらけの企画、つまりフェイクから始まった物と言えるわけです。(そしてこの競技麻雀の本質は今でも大きくは変化して無いとも言えます)
戦術研究という点でも当時の考え方は理論的だったかと言われれば、何とも、、、
という点は多々ありました。1970年代あたりの戦術本というのを読んだことがある人は解ると思いますが。
そもそも僕は麻雀というゲーム自体を「自称上級者の温床」と思ってますが、このゲーム、そして競技麻雀の本質はやはりフェイクの部分が強いのです。
選択回数は多いし思考する場面も多いでも実はそれが結果に直接反映されない運ゲー要素が大部分で、実は多くの人間が「考えるフリをしているゲーム」、という点を100%否定することはできないと言えます。
つまり
「麻雀は競技として成り立つ。ある程度回数やれば強い人が勝つだろう。こんなに考えるポイント多いんだから」
というなんとなくの観点から始まったフェイク文化が発足だったと言えるわけです。
実際に僕が競技選手になった当初、まーーーったく理論的な討論をしてくれない先輩方に対してげんなりした事は一度や二度じゃなかった(^^;)
でもその一方で競技麻雀のこの20年の中で、
「フェイクから作り出された文化の中からリアルを作り出す動き」ってのが確かにあったわけです。
麻雀のゲーム性を正しく理解して理論的な戦術を作る事、
特に回数制限がある戦いゆえに生まれてくる特殊状況にしっかり対応する事、
そしてそれを普遍的な考え方として世に広げる事、意味があるかはわからないけど、それをやってきた人達が確かにいたわけです。
まあ今や伝説的な企画となってる「オカルトバスターズ」は勿論、有名選手だけじゃなく無名選手も含めてそんな草の根活動があったわけですね。
いろんな事件もありました。最たる例はやっぱこれですかね。
今では美談と取る人が多いですが、当時は批判的な声も滅茶苦茶多かった。
無論こういった動きの源は、
阿佐田哲也先生や小島武夫先生らの先人が生み出した功績の上になりたってるし、
この20年の功労者の人の実績も現在の第一線で活躍してる人の実績も、
ある意味でこれからの選手の研究の踏み台ともいえます。
近年、競技麻雀選手の平均レベル、競技麻雀ファンの知識レベルは10年前に比べてすごいあがったと思ってます。
その一番大きな原因は放送対局の増加、ネット麻雀による検証と情報交換、といったところですが、それらへの寄与も含めて上述の選手たちの草の根活動がもたらした数少ない功績と思うところはあるのです。
「フェイクの中にあるリアルを見つけて広める」
僕がこの20年でそんな動きを見てきたし、
そこに多大な努力をしてる尊敬すべき選手が少なからず存在していたし、
近年の新人のレベルを見るとその質を支えたのが自分たちの世代の活動と考えると、彼らに恐ろしさを感じると同時にちょっとだけ喜ばしくも思うわけですね。
さて、
だからこそこれにかかわった多くの選手が「競技麻雀の急速な拡大によってその功績が結局またほとんど消えてしまう事を少なからず恐れている」
いう点があるのです。
これから更に業界が大きくなる中でそれを担う人たちにこの背景をちょっとでもいいから汲んでほしいのが正直なところ。
ちょっと長くなってきたので続く、、、、書く気力が続けばw