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2018年2月5日月曜日

麻雀も人狼も関係ない雑学話 その9:人類の偉大なる一歩を刻んだ兄弟の苦悩のお話

※本当は先週あげる予定だったのだが、橘哲也の結婚にて急遽別記事になったので今日あげますw

1948年1月30日
とあるアメリカの偉人がなくなった日である。

アメリカ合衆国に在住していた二人の兄弟、
ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライト

彼ら「ライト兄弟」の手によって作られた「ライトフライヤー1号」が世界初の「有人動力飛行」に成功したのが1903年12月17日、人類の歴史に「飛行機」という新たな機械が誕生した瞬間だ。

当時不可能とも呼ばれていた「空気よりも重い"機械"を空に飛ばす」という挑戦、
多くの研究機関がこぞって挑戦したこのテーマが実現し、今では我々の生活を支える礎の一つになっており、ライト兄弟の名前も人類史に刻まれている。

が、
実は2人がこの偉業を成し遂げた後にどのような人生をたどったかについては知らない人も多い。
ちょっと今日はそれについて書いてみようかと。まさに無駄雑学w


結論から言えば、この発明の後に2人を待っていたのは賞賛や栄光の日々とは真逆、
果てしないまでの特許や権利を巡った争いに巻き込まれる日々だった。

そもそも当時飛行機が兵器として注目されていたこともあり、彼らが取得した特許は莫大な利益になる事が期待されていた。当然その権利は妬みと簒奪の対象だったわけである。

特にアメリカの科学研究機関であるスミソニアン学術協会は彼らの功績を一切認めず、この利権を狙った企業と手を組んで彼らからパイオニアの地位と権利を奪いにかかった。
協会による虚位の実験報告認定とそれらの宣伝、
そしてライト兄弟がその後の急速な航空技術進化時代にはついていけなかった点もあり、
1910年頃に彼らは完全にその名誉と権利を奪われてしまう。

それに対して兄弟は必至の抗議を続けるが受け入れられず、
そして1912年に兄のウィルバーは失意の中で他界、
弟オーヴィルもその4年後の1916年に飛行機製造業から手を引き、結果として歴史は挿げ替えられてしまうのである。

が、彼らの偉業を公正に評価したのは他国イギリスだった。
ロンドン博物館はすでにアメリカ国内では存在を忘れ去られていた「ライトフライヤー1号」を展示したいとオーヴィルに希望を寄せ、国内の冷遇もあった結果1928年それはイギリスに渡る事となる。

その結果、多くのイギリス旅行に来たアメリカ人がそれを見て「なぜこんな場所にあるのか?」と驚き、それはやがて世論となった。
最初はそれら世論を無視していたスミソニアン協会もその拡大にともない何かしらの対応を迫られる事となる。
オーヴィルと面談しライトフライヤー1号をアメリカに戻すよう要請した協会に対して、彼の条件は「歴史を正しく修正する」ことのみだった。

結果として1942年ついにスミソニアン協会は声明を発表、
ライト兄弟の偉業を認め兄弟に陳謝、
これを受け入れ、オーヴィルはライトフライヤー号をアメリカに戻すことに合意した。

しかし第二次世界大戦の影響で返却は1948年12月までかかる事となる。
そして残念ながらこの返還式の約1年前、
1948年1月30日にオーヴィルは他界する。今年が没後70周年となるわけだ。


晩年の彼は飛行機を発明したことを後悔する旨の言動も残している。
1942年にヘンリー・フォードに対して、自分が動力飛行機を発明したことを悔いる内容の手紙を送り、1943年アメリカ特許局設立150周年記念行事に参加した際には、最近100年間の十大発明は何かと問われ、あえて飛行機をその中から除外している。
第二次世界大戦に関し、飛行機がもたらした破壊を残念に思った点もあったようだ。この点はダイナマイトを発明したノーベルにも近い。

まあただ、
やはり彼らの功績が人類の生活に飛躍的な進化を与えてくれた点は多い。
そんな彼がこの世から飛び立った、1/30はそんな日なのです。

来年ももし覚えてる人がいたらまたこの記事よんでくださいw