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2019年11月5日火曜日

改めて考えてみると坂本大志には麻雀のセンスがあったのだろう

そうでなきゃ最高位なんてとれるわけがない。

「努力すれば必ず上手くなれる」という言葉を麻雀でも聞く。
その考え方は大事だし、的を得ている部分も多分にある。
どんな人だって努力すれば必ず上達するのだ。

が、
「努力をすれば必ずトッププロになれる」といわれると、
正直にこれは違和感しかない。

所詮人間には「才能」って壁がある。
どんなに努力したって誰もがNo1になれるわけではないし、
No1に近い距離にすら行けない人が大多数だろう。


この世には、努力の量ってのが結果と直結しない物なんて山ほどある。
いや、大半がそうである。
麻雀だって僕の見てきた限り、努力の量と実力なんて比例するのは”最初のある程度まで”なわけだ。

例えばこの業界で活躍している麻雀プロ100人とかにもしも「強くなるために必要な物は何か?」というアンケートを取ったら、
ぶっちぎりの一位は「センス」になるのではなかろうか。
実際に麻雀プロを10数年やってもデビュー1,2年の新人と大差のない技術の人なんて業界にはゴロゴロいるし、そういった人に足りないのは勉強量よりもセンスのケースが多々ある。
強い人はほっといても勝手に強くなるし、この業界の頂点近辺にいる方々は涼しい顔しておいて多大なるセンスと努力の両方で成り立っている方々なわけだ。

結局センス無くしてNo1になんてなれない、これが健全、
プラスすれば麻雀だから運だって必要である。

だからこそ、
「坂本大志には結局は運もセンスもあった」
これである意味正解だと思う。
誰もが彼のように努力すれば報われるわけでもない。


が、
それでも彼が”この10数年麻雀界で一番努力をした人間の一人”という点は僕を含めて多くの人間が認めるべきところだろう。

そして彼は必ずしも麻雀プロになった当初からセンスや実力を感じされるタイプの男ではなかった。
つまり彼の実力の大部分を占めているバックボーンは、センスの土台の上に積まれた膨大なまでの練習量である点、これも疑う余地はないだろう。

なんというか、
彼の麻雀、特に競技麻雀にかける情熱は「狂気の域」とすら思う事さえあった気がする。

10数年前の第31期前期に最高位戦に入会し、
勤務先の雀荘でも当初中々に結果が出ずに同僚に心配された日々もあった彼だが、
その頃から「業界一の麻雀馬鹿」ともっぱらの噂の男だった。

坂本の逸話①
そのころの彼は渋谷道玄坂の雀荘で働いていたのだが、
長時間勤務を終えた後、渋谷の反対にある宮益坂の雀荘に客打ちに行き、ちょっと休んでまた道玄坂で仕事をする、
”コイツ正気か・・・”と回りが疑うほどの鬼畜ライフスタイルを貫いていた。

坂本の逸話②
「誕生日に
① 自分が尊敬する麻雀プロ3人とセットができる
② 自分の好きな子とデートが出来る
どっちを選ぶ?」
という2択にて、
「尊敬する麻雀プロ3人のセットに、自分の好きな子を連れて行く」という答えを出し異端の感性を披露。

坂本の逸話③
勤めていた雀荘での社員雇用の話も”競技に差し支える”といって突っぱねる。
(一時だけ社員やってたっけ?)

他にも数え上げればキリがない、
思い返せば返すほどの麻雀狂いで競技麻雀狂い。
それが彼だ。


でも逆にそれは”恐怖との戦い”だったとも思うのだ。

将棋の羽生善治がこんな言葉を残している。
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。
報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって
継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

この言葉は逆に言えば、
「努力したとしても報われない事が多々ある」、
そんな怖さも語っているわけだ。

センスないゆえに努力が報われない人は多々いる。
運がないゆえに努力が報われない人も多々いる。
報われるにはそれらがある程度必要だ。
でも報われるかどうかなんて努力している最中には解るはずもない。

つまり努力とは恐怖との戦いなのである。
狂えば狂うほど怖い。
それが努力の一種の正体。

でも戦い続け、狂い続けた。
僕の多くの知人の中でも、
多分誰よりもその恐怖と戦い続けてきた男、
そんな彼が昨日大きな勲章を手にした。

第44期最高位
坂本大志

改めておめでとう。
同じ時代を選手として過ごしてきた一人として本当に僕もうれしい。
そんな日でした。