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2018年11月9日金曜日

麻雀も人狼も関係ない雑学話 その12:藤子不二雄という二人の天才について

先週の日曜に六本木森ビルの「藤子不二雄A展」に行ってきた。




https://tcv-fujiko-a-ten.roppongihills.com/top.html

藤子不二雄という名前を知らない人はおそらくいないのではないかと思うので細かい説明は省略する。
この名前はそもそも二人の漫画家による合同ペンネームであり、
1986年にコンビ解散をして藤子・F・不二雄と藤子不二雄ⓐになっているのも大体の人はご存知だろう。
そして実は1960年頃の「オバケのQ太郎」以降、すでに二人はほぼ独立した執筆をしている状態だった事も有名でもある。

さて藤子不二雄といえばF氏の代表作「ドラえもん」が国民的アニメとして今でもTV放送されているがゆえ、
A氏に「ドラえもんじゃない方」みたいなイメージを持ってる人もいるが、
実は「大ヒット作の数」という観点からするとA氏の方が多いともいえる。

「プロゴルファー猿」
「怪物くん」
「忍者ハットリくん」
「魔太郎が来る」
「笑ゥせぇるすまん」
「まんが道」
まあ「ドラえもん」が超ウルトラメガヒットだったのでそっちに印象がいってしまうのもやむなしではある。
ただ1980年代に「ドラえもん」がヒットするまで藤子スタジオのアシスタントの大半はA氏関連の仕事に従事していていたと言われているし、
ドラえもんのヒットの要因にはこれらA氏の作品の力が築いた藤子ブランドの影響力があったのもまぎれもない事実だろうし、
80年代に幼少期を育った僕としては夕方にテレビをつければドラえもんだけでなく怪物くんやハットリ君が見れたのは懐かしい思い出だ。

そしてコンビとして多くの作品を出しながら二人が非常に対照的な漫画家だったことも今では結構広く知られている。
F氏はとにかく生真面目な職人気質の漫画家であり、酒もタバコも遊びもほとんどやらない人だった。
それゆえ子供のような純粋な気持ちで少年漫画を生涯書き続け、「ドラえもん」という長編もそんな彼だから書けた、とA氏は自分と比較して語っている。

一方のA氏は対照的にとにかく多くの遊びを覚え、漫画以外の色々なメディア仕事にも取組んでいた。
作品についても様々な題材を取り扱い、一つの作品を書き続けるという点にも否定的であり、
作風も生涯一環して児童向け作品を書いていたF氏に対しコロコロと変えていった。
「誰も書いた事のないような作品を書く」というモットーで当時異色の漫画ジャンルだったブラックユーモアにも筆を進めた中、
「笑ゥせぇるすまん」という漫画史に残る名作も生み出している。

ゆえにA氏の代表作というのを定義するのは非常に難しいのだが、
やはり一つあげるのであれば自伝的漫画として知られる「まんが道」だろう。


長編を好まなかったA氏だがこの作品だけは細々と書き続け、連載は43年間にもおよび、完結したのは2013年と最近である。
ちなみにこの作品が出来た背景の一つについてA氏は、
「当時カメラにはまっており、住居だったトキワ荘や仲間の様々な記録をとっていたから書けた。僕の多趣味が功を奏した作品」と述べている。
同時期の様々な漫画家達(手塚治虫、赤塚不二夫、石ノ森章太郎 等)の描写も含めた名作ゆえに知らない人は読んでみると面白いだろう。

さてA氏は今でもご健在だが、F氏は1996年に死去している。
A氏はF氏を「自分は足元にも及ばなかった。彼は天才であり、自分は彼の力で漫画家になれたようなものだった」と常々評している。
一方のF氏はA氏のようにメディアに出るタイプではなく、A氏について述べていた記録もあまりない。

ただ職人気質のF氏からすれば、
色々な世界に自分をさらし、様々な作風を出していけるA氏の方こそまぶしいくらいの才能にあふれていて、
「ドラえもん」の大ヒットもA氏の力があったからこそ、と大きな感謝をしていたんじゃないだろうか、と個人的には感じる。
※実際二人の中はコンビ解消後も極めて良好だったと言われている。

F氏が亡くなった時、A氏は追悼として「さらば友よ」を執筆、
これはまんが道の最終章にあたる「愛…しりそめし頃に…」の単行本にも掲載されている。興味ある人は是非とも
そういえば僕自信、「愛…しりそめし頃に…」はまだ全部読み切ってなかった。
今度買おうかな。


A氏が現在84歳、
当時の仲間だった多くの漫画家は他界された中、これからも元気で頑張って欲しい次第ですね。

改めて上記の藤子不二雄A展、お勧めなので興味のある方は是非^^